劇作家の生前写真

わが町

アメリカの劇作家にソーントン・ワイルダーという人がいる。

彼の有名な作品に『わが町』がある。

この作品の最後の場面は墓地のシーンになっていて舞台中央右よりには10脚ほどの椅子が並び、それが墓地で 椅子にはすでに亡くなった 町の人たちがコーモリ傘をさしながら静かに座り、ときおり囁きあったりしている。

その日、新たな仲間が加わってくる。2番目の子供のお産で亡くなった 26歳の年若いエミリー。

死んで間もない彼女は、一方では死者の安らぎを感じながらも、もう一方では、もう一度だけ現世を訪れてみたいと望んでいる。

死 者たちはこぞって、それに反対する。悲しい気持ちになるだけだからと。

「あなたは生きるだけでなく、生きている自分を眺めることになる」、いや「生きている人たちには見えないものまでが見える」のだからと。

結局、彼女はこれまでの人生で一番平凡なある1日、14年前の12歳の誕生日を選んで、その日に帰ることにする。

 

それは、ごくありふれた一日が始まる。

いつもの牛乳配達人の声、子供たちを起こす母の声、講演旅行から帰って階下からエミリーに呼びかける父の声、誕生日のお祝いの品々を準備する母親。

しかし、エミリーはたちまち耐え難い苦痛を覚え始めます。

未来に起こる数々の不幸も知らず、幸せそのものにしている父母、エミリーに向けられる両親の何気ない愛情、それらすべてが、刻一刻が、あまりにも大切で、あまりにも見るべきものに充満していて、

エミリーはついに耐え切れずに死者の国に戻っていく。

 

もし私たちが、エミリーと同じように、瞬間に込められたすべての意味が理解できたら、きっと、その瞬間の有難さに、悲しさに、自責の念に、美しさに、耐え切れなくなるだろう。

瞬間の記憶は追憶のなかで、その意味の深さを知り、感謝し、喜び、悲しむのが人間的なのかもしれない。

追憶の有難さは、たとえ一瞬、慟哭衝動に襲われようとも、それ以上には深刻化することもなくすむことです。

泣きじゃくる赤子が間もなく母の胸のなかで眠り込むように、追憶という母の懐がほどなく癒してくれるからです。

にもかかわらず、生の充実を願うなら、恐ろしいほどに満ち満ちたこの瞬間を、十全に生きてみたいとも思います。

瞬間の充実が生きられたら、どんなに幸せなことだろう。

でもふと、この恐ろしいほどの苦しさと充実を、いつかどこかで生きていたようにも思います。

一刻、一刻を大切にしながら、愛する人の命とともに生きていたあの日々、あれがそれだったのではないでしょうか。

改めてこんなふうには思うことはありませんか。

生の充実を望むのなら、やはり死とともにある日々を忘れてはならないのだと。

死の意識のあるところに、生の充実もあるのだと。

 

 

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